2014年1月31日

内藤廣展 アタマの現場 講演会

TOTOギャラリー・間講演会「内藤廣展 アタマの現場」を受講。会場は神宮外苑の入口に位置し、槙文彦氏が設計した津田ホールだった。3.11以降、講演会等で自身の設計した建物について話すことが出来なかったという内藤氏が、その会場で久しぶりに自身の建物(建築)について語った貴重な講演会だった。内容はその内雑誌等で発表されるだろうが、そんなこともあり備忘録として保存する。

建築と土木の融合を目的に東京大学工学部土木工学科の教員となった内藤氏は、師である吉阪隆正氏の言葉「10年同じ穴を堀れ」を守り、教鞭を取り始めてから10年後の2011年に建築に戻ろうと思って大学を退官された。その最終講義をされている時に東日本大震災による揺れが起こったらしい。そんなこともあり、今もなお矛盾と混乱 (ある種の怒りのようなものも含まれる) 中にいるとのこと。そして現在は、それらを受け止めてみようと思っているとのことだった。

今回の展示会「内藤廣展 アタマの現場」には、新たにつくった模型は展示されていない。内藤事務所の一部を再現した書棚には3.11以降氏が読んだ本や、設計をする上でのイメージリソースなどが置かれている。展示会場の中央に置かれたいくつかの模型の中のひとつは古代ローマの平面。ビトルビウスの建築十書を読めば解るが、かつては建築も土木も都市も一緒だった。上述したが、それを再び繋ぎとめたいという目的を遂行しようとした東京大学勤務時代の話を交えながら、まずは展覧会の会場構成の話が丁寧な口調で語られた。

次に著書「内藤廣の頭と手」の中に描いたポンチ絵の話に移行する。内藤氏の頭の中には青鬼と赤鬼がいるとのこと。青鬼は論理的で現実的で求道的。赤鬼は支離滅裂で場当たり的で快楽主機。これまでの建築活動の中では現実型で論理的な青鬼がかなりの割合を閉めたていたが赤鬼も同時に存在しているといった氏の思考方法の話へと続く。詳しくは上述した書籍の中に描かれたポンチ絵を参照。

中盤は実作を映しながら3.11以降の考え方としての3つのベクトルが語られた。
ひとつ目はスタティックなベクトル。整形の安曇野市新本庁舎、円形平面の九州大学椎木講堂、球体を切り出したような周南市西道の駅、これらは幾何学をベースに建築を思考している。ふたつ目のベクトルは、上部に剛域をつくりそれを柱で支える構造形式。木造の立体トラスを採用した海の博物館から、小松ドーム、静岡県草薙総合運動場体育館へと繋がる。みっつ目のベクトルは木とコンクリートといった二つの機能を、対比的に異なる素材として使って行こうというもの。コンクリートのシェルターとその中に展開される木軸あるいはその逆。ある種の混乱を抱えながら、異なるベクトルを育てて行くとうのが氏の方法論なのかもしれない。

現在は素景に向かっているといいながら危険を承知で4つのコトバを述べるといって語られたのは以下の文言。「新しくもなく古くもないもの」「絶えず発せられ受け止められるもの」「以前からあってこれからもあるもの」「生まれる前からあって死んだ後もあり続けるもの」詳しくはTOTO出版の「内藤廣の建築 2005-2013 素形から素景へ2」参照

終了間際には高さ120mの山を80m切り出す陸前高田の現在の風景を写しだす。被災地の高台移転計画の工事風景だ。もともとあった山からの切り土はベルトコンベアにより河川を挟んだ対岸の市街地に運ばれ、その切り土で高さ8mの防波堤をつくっているという近代化至上主義。なんて馬鹿げたことをやっているのだと氏もいっていたがその通りだと思う。(下記写真参照)

写真.JPG

私が設計した「諏訪の家」もその馬鹿げたことへの抵抗だと思っている。便利さや合理性を主題にした近代化は、かつての建築が持っていた目的を喪失させている。抵抗というと聞こえが悪いかもしれないが、言い換えれば建築単体だけではなく土木や都市計画と一体となって考えることにより豊かなものになるということである。「諏訪の家」ではその環境に対してどう建つべきかを私なりに考え最大限の配慮をしている。氏も言っていたが、建築は大きかろうと小さかろうと人間を守るものであり、人が居られる場所をつくることがこれからの建築の使命だと。近代的な手法について懐疑的になる状況がまだまだ続いているし、工学的な思考は、これが駄目なら甘かったと考え、それを強化しようとするが、そもそもそれが間違っていたのかも知れない。とまとめる。

そして最後はグーグドやピアソラ的世界観を引用しながらのまとめとなったが、総じてわかり易く、久しぶりに氏の持論が展開された講演会だったと思います。

Ustに映しだされなかった質問タイムのことも記述しておきます。ひとつ目はアーレント(ハンナ・アーレント?)が引用されながらの、難しい話となりましたが、「偉大なる凡庸」というとてもわかり易いコトバでまとめられました。偉大なる凡庸とは思考停止ということではなく、考えることを辞めてはならないという我々へのエールだったと思います。ふたつ目はプログラムについての問いかけ。建物を成立させるための手続きとしてプログラムは必要なのかもしれないが、プログラムの消費期限はせいぜい10年と短いし、それよりもそこに居る人が生き生きしているかどうかが大切と締めくくる。プログラムを緩やかに受け取ることが大切なのかもしれません。

そんな訳でこれからさらに今日の内容を深めたいと思いますが、だとしたら、例のあれは素景となり得るのだとうかと考えてしまう。私はまだまだ矛盾と混乱の中にいる。展覧会の会期は3月22日まで。ギャラリートークも数回あるので、偉大なる凡庸方式で引続き考えてみようと思います。

長谷部勉

投稿者 システム管理者 : 2014年1月31日 23:42