2012年11月 9日

建築学会 復旧復興支援部会連続シンポジウム

私の恩師であり復旧復興支援部会の会長である布野修司先生が司会を務めるとうかがったので日本建築学会復旧復興支援部会主催の復旧復興支援部会連続シンポジウム[復興の原理としての「建築」(コミュニティ・アーキテクト制をめぐって)]を拝聴してきました。シンポジウムは第一部の基調講演からスタートし、豪華メンバーが参加する第ニ部の連続レクチャーに続き、第三部のパネルディスカッションでまとめるという構成だした。第二部や第三部も大変素晴らしかったが、伊東豊雄氏の基調講演の内容を備忘録として以下にまとめておきます。
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■基調講演:伊東豊雄氏
帰心の会では以下の3つのルールを設定し被災地と関わってきた。1.批評しない。2.小さなことでも出来ることから活動する。3.個を超える。これなら出来るのではないかということで「みんなの家」が始まった。

被災地を訪れたときに避難所にきれいなダイニング・テーブルを置くだけで変化があるという妹島和世氏の発案もあったが、考えているうちに応急仮説住宅が建ち始めたことから「みんなの家」をつくることになった。みんなの家は以下の3つのと理念をもとに建てられている。1.家を失った人々が集まって語り合い、心のやすらぎを得ることが出来る小屋である。2.住む人(利用者)と建てる人(建築家、施行者)が一緒につくる小屋である。3.利用する人々が復興を語り合う拠点である。「みんなの家」は地域全体のリビングのようなもの。リビングやキッチンは積極的なコミュニケーションを促す。これはシェアハウスにつくる共有リビングにもつながる発想だと思う。

伊東豊雄氏がベネチアビアンナーレのコミッショナーに就任し、藤本壮介氏、乾久美子氏、平田晃久氏とつくった陸前高田の「みんなの家」は、被災者のひとりである菅原さんとの出会いから始まったとのこと。菅原さんが現地でみんなと一緒に復興計画をつくるのでなく、私は逃げないという姿勢で現地に留まることに感動したらしい。

進め方はそれぞれがスタディし、案を持ち寄り打合せするという方法で進んだが、個性が強いヒト達が集まって、みんなでひとつのモノをつくろうという行為を調整するのはなかなか難しいものだったらしい。
またそれぞれが持ち寄る初期のスタディ案はみんなが考えていることが良くわかるものだったとスタディ期を振り返る。屋根が欲しいというと屋根ばかりつくるとか、モノで埋まっているようなものをつくりたいというとそれを建築的テーマにすり替えるといった多様な考えがあったらしい。被災地を見た建築家は一人の人間としてではなく一人の建築家として考える方法を取るように気がする。というコトバが気になった。
陸前高田の「みんなの家」は結果的に構造的にはまったく問題ないが、塩を浴びて立ち枯れした杉丸太をつかって垂直方向に立ち上がる建築になった。

伊東氏は遠藤新氏(工学院大学/都市計)小野田泰明氏(東北大学)とともに釜石市の復興アドバイザーも務める。
合掌造りのようなフォルムを持つ「段々の家」。ある種のシェアハウスのような建築形態。ボクは好きだけど評判は良くないらしい。釜石の復興にも熊本アートポリス方式が採用されると良い。実際にいくつのプロジェクトがプロポーザル方式で選定されている。復興計画のマスタープランをつくって行くのではなく、みんなの家のような建築を点のように投下して行くことによりまちが活性して行くような仕組みをつくっているのだろう。

今考えているのは、物語をデザインすることが新しい建築を生み出して行く。個は超えられるのか。ということだとか。記憶の継承は建築によるのではなく物語による。その物語をどうやって建築にして行くかを考える必要がある。今、建築は変わらなくなり、建築家はかわらなければならない。のかも知れない。
熊本アートポリスも25年かかってやっと認識されてきたと伊東氏。建築の力はボクが考えるよりも微力なのかもしれないが。我々は信念を持ってひとつひとつ丁寧につくることが世の中の為になると思う。
長谷部勉

投稿者 システム管理者 : 2012年11月 9日 23:35